大崎 正治(國學院大學教授)
はじめに
中国の詩人杜甫の「国破れて山河在り」という詩にはかつて十分意味があった。自然の力が十分強かったからである。けれども、自然の征服を目指して驀進してきた現代機械文明では、むしろ「国栄えて山河なし」というほうがふさわしいのではないか。それはこういう意味である。モノの生産・消費やGDP(総国内生産、つまりおカネ)の量、生産・交通・通信の速度からみれば、現代人類はたしかにめざましい進歩をとげた。けれどもその代償として、自然環境や生物の多様性、地域や家庭の結びつきは極度に衰弱してしまった。要するに、物質的な自然と精神的な自然がともに風前の灯と化しつつあるのだ。
これに対して、いま自然に価値をつけようとする動きが活発に展開されつつある。自然のねうちを経済価値に反映させたいという試みや政策を本稿では「自然価値論」と総称しておこう。
自然価値論とその政策は自然を尊重して、その評価を経済価値で表すことによって、突き進む環境破壊に歯止めをかけたいという切なる願いから発したものであり、それなりに期待さるべき試みであると言えよう。けれども、すでに昔の賢人たちから、人類は「失ってはじめてその恵みのねうちを知る」(プラウトゥス---紀元前三世紀)とも「井の乾くまで水の価値を知らず」(T・フラー---十八世紀)とも評されてきた。したがって自然価値論の落ち着く先を冷静に見極めておくことも大切なように思える。本稿では、自然価値論のいくつかの試みをすなおに評価しながら、より深い立場からその限界と問題点をさぐってみることにしたい。
自然価値論にはだいたいつぎのタイプがある。①環境税(これは水源税、森林税、炭素税に分けられる)、②国民福祉指標(自然のねうちを評価して、GDPの代わりに用いる試みである)、③社会的共通資本(これは自然を公共財とみなす)。ただし、紙数の制限を考慮して、本稿では環境税にしぼって議論することをお許しいただきたい。
環境税はなぜ必要か
環境税はその実施目標の重点の置き方や税収の配分対象の違いに応じて、「炭素税」とか「森林税」、「水源税」とか呼ばれている。地方自治体ではその域内の林業振興や山村振興、あるいは水源開発・水道財政の改善を直接のねらいとしているので、環境税は森林税または水源税と名づけられているようだ。本稿では、紙数の制約を考えて、地方自治体の問題まで手を広げることは慎んでおく。
他方、地球温暖化対策の責任を担うわが政府はそれを直接的には炭素税と呼んでしかるべきであるが、環境省は間接的な表現である環境税を選んだようだ。周知のように、地球温暖化の原因は主として人類活動、とくに化石燃料の消費、による二酸化炭素(以下CO2と略称)の排出増加にあると認識されている。そこで京都議定書(一九九七年)によって、先進各国は二〇〇八―二〇一二年の間に各国別に誓約した排出削減目標を達成することを国際的に義務付けられている。わが日本は京都議定書を定めた国際会議の議長国であり、一九九〇年のCO2排出量を基準にしてその6%を削減するという責任が重大であるが、その目標値がとうてい履行できないことがすでにはっきりしてしまった。したがって、責任所轄省である環境省はここ数年環境税の施行を重点的に提案してきたが、そのたびに経済団体や経済産業省の強い反対に遭って頓挫してきた。けれども、議長国の責任のほか、ここ数年異常気象と連動した台風・豪雨の頻発とそれによる被害の増加もあって、わが政府に対して環境税の実施を求める声は国際的にも国内的にもますます高まってきている。EUでは多くの国が炭素税を採用して、CO2削減に実績をあげている。国内を見ても、上述したように、すでに十以上の県で環境税が実施ないし検討されている。これらのうごきを見ると、経済団体がいつまでも反対を続けるのはあまり賢明とはいえないのではないか。
つぎに環境税を理論的に根拠づけてみたい。ひるがえってみると、自動車のCO2排出がもたらす環境問題はもともと道路沿線住民に与える大気汚染、すなわち公害が出発点であった。したがって、厳密には「CO2税」すなわち公害税はクルマの保有者や利用者から徴収し、被害者の症状に則して支払われるべきところであった。この場合、CO2税はいわゆる汚染者負担の原則に則った罰金ないし補償金の性格が強かった。しかし、CO2の排出者(加害者)も被害者も不特定多数であるため、CO2税を実施する手続きは事実上不可能に近いほど煩雑なので、この課税制度はほとんど実行されてこなかった。
そのうちに地球温暖化のほうが地球全体の大きい問題となっただけでなく、このほうが国家によって一律に対策費が徴収できるので、炭素税がとりあげられるに至った。そのうえ、クルマ利用者にとって炭素税はCO2税と違って罰金という不面目な地位に立たなくて済むので、徴収者たる国家も納税者もこのほうが扱いやすい。こうして、罰金(公害税)から炭素という自然の利用税に性格を変えたのである。つまりこの時点で、文字通り自然に価値がつけられたのである。
ところが、環境省は炭素税という名前さえ遠慮して、一見わかりやすい環境税という名にした。この名称は当座の抵抗を和らげるために採用されたと推測されるが、のちの時代に問題をひきおこすおそれがある。なぜなら、自然環境の役割は炭素にとどまらず、水や森林も含む点で、環境税というのは炭素税よりさらに広い概念である。自然環境の危機が進行して、地球温暖化対策としての炭素税にとどまらず、大気汚染補償税(本来の公害税)や水源税・森林税を導入せねばならなくなるときが早晩やってくるが、そのときに国民・納税者にどう説明するのであろうか。
それはともかくとして、CO2を削減する経済的手段として、財界が主張するところのCO2排出削減技術への補助金と、炭素を利用したことに徴収する炭素税とどちらがCO2削減に有効かつ公正といえるだろうか。補助金か課税かをめぐっては、20世紀に長らく経済学者のあいだで多くの議論が展開された。その結果から私なりに結論を言うと、次のとおりではないだろうか。
まず二つのあいだでは実施の次元が異なるのでストレートには比較できない。補助金は企業活動の内部に直接刺激を与えて技術革新を促すが、課税は技術については企業に任して、企業の外から市場の価格やコストに影響を与える。しかし公正の立場から言えば、あきらかに課税のほうが経済理論として優れている。なぜなら、補助金は環境汚染被害者や消費者より企業を優遇することになり、その点いわば企業への買収金である。それに対し、課税は利害関係では中立を保ちつつ、環境汚染の結果だけを基準にして徴税する。その結果起きたコストや価格の変化を受けて、企業や消費者は環境を汚染しがちな商品や技術を抑制し、環境によい商品や技術を間接的に促す。補助金を用いて生産1単位あたりCO2排出量を減らす技術が開発されても、生産量が増えるならCO2の排出量がかえって増えてしまう。
以上の理論的整理から言えば、日本の財界が強く反対している炭素税(環境税)は、OECDで採択された「汚染者負担の原則」に沿った環境対策である。それに抵抗している日本財界の主張は資本主義の原則にもとることになる。せいぜい環境省が提案している課税と補助金の並行採用が無難であろうが、そのときでも、補助金の額を多くしすぎれば、公正原理に反するだろう。
環境税の計算基準とその限界
炭素税の計算根拠の点でいくつかの方法がある。「アンケート法」といわれる自然価値評価法があるが、それは人気投票と寸分違わないので、私の目から見て安直に過ぎる。次善の策として私なりに評価できるものに代替法がある。これは自然の機能を人工物で代替したときの費用で経済的に価値づけることである。あとでふれるように、これ自体大きな問題を含んでいるが、資本主義のなかでは当面それでもっていくしかないだろうと思われる。代替法の具体例をあげると、原子力や火力発電の電気で海水を淡水化するコストで自然の真水の経済価値を計るのである。
この評価法を認めても、正確に計算するのは並大抵ではない。今の例でも、自然の水はけっして人工水のような蒸留水ではなく、いろいろなミネラルが含まれ、それが「おいしい水」を生んでいるのである。こうしたミネラルを蒸留水に溶解させるためにはさらにコストを要するし、それでもほんもののミネラルにかなわない。結論的に言えば、私たちはこの近似法でアプローチするしかないのであるが、自然はるかに複雑で、代替法で自然の価値を計る手続きにはきりがないのである。
森林の経済価値に例をとると、ため息をつきたくなるほど膨大な問題が派生する。私たち、鎮守の森CO2吸収調査グループ、は東京都二三区内にある五九神社の鎮守の森(樹林地一四二・五万平方メートル)について炭素蓄積量を調べた結果から、その鎮守の森の経済価値を二二〇〇万円と計算したことがある(『東京の空を美しくする鎮守の森-鎮守の森CO2吸収調査報告書』二〇〇四年)。この数値は、環境省が提案していた環境税一トンあたり三六〇〇円(CO2吸収量一トンあたり一万三二〇〇円)を基準にしたものであるが、鎮守の森のねうちはけっしてCO2吸収効果につきるものではない。少なくとも普通の森林に共通する貯水、水質浄化、土壌保護、気温緩和、防風、防音などの効果を考慮に入れると、鎮守の森には合計してその五〇倍の経済価値があると推量できる(日本学術会議の答申「森林の多面的機能の貨幣評価」を参考にした)。けれども、鎮守の森がもつ精神安定効果となると、その経済価値の計算は複雑さと困難さを増す。さいごに鎮守の森の中枢的地位を占める宗教上のねうちはほかに喩え様がなく、代替評価の仕様がない。
むすび
こうしてみると、環境税にかぎらず自然に経済価値をつける試みを完全に追求することには無理があることがわかる。そもそも自然のねうちを人工物の価値やコストで計る行為に原理的に限界があることを認めるべきであろう。それにもかかわらず、資本主義のもとで環境汚染を減らすには環境税をきちんと実行する必要がある。これで足りない分は経済価値で尽くせない自然のねうちである。それに対してはむりやり経済価値に還元することをあきらめるだけでなく、かといって無視せずに正視する勇気と知恵、すなわち経済感覚を超えた高次元の知恵が役割を果たさねばならない。エネルギー消費の行過ぎた経済活動をそれによって敢然と自制し、自然に則した産業構造を樹立する場が要請される。それは宗教的境地と呼ぶものかもしれない。自然信仰つまりアニミズムから発展した神道がここに役割を果たすのではないだろうか。現代に生きる私たちにはこんな形で、経済合理主義と神道との複眼思考が望まれる。
(二〇〇六年四月執筆、未刊)
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