大﨑正治
なぜいま小国寡民か
『老子』第80章に次の文章がある。
「小国寡民には什伯の器有りて而も用いざらしめ、民をして死を重んじて而うして遠く徙らざらしむ。舟輿有りと雖も、之に乗る所無く、甲兵有りと雖も、之を陳ぬる所無し。人をして復縄を結んで而うして之を用いしめ其の食を甘しとし、其の服を美とし、其の居に安んじ、其の俗を楽しましむ。隣国相望み、鶏犬の声相聞こえて、民は老死に至るまで、相往来せず。」(小川環樹訳『老子』中央公論社」
「什伯の器」はすばらしい設備・機械・道具さらには兵器を意味するとみてよい。交通運輸通信機関も軍隊もたとえあっても使わないというのは、わが日本国憲法第9条の趣旨に通じていて興味深い。"自らのつくる衣服や食事に満足し、自らがすむ住居と土地・環境になじみ、自らの伝統と習慣を楽しむ″というのは、高度に技術の発達した現代にこそ緊急度が高いと思う人が多い。反面、上の命題はいまやアナロクロニズムにすぎないとみる人もそれに劣らず多いに違いない。
ところで、食べものの安全と人体の健康を求めてはじまった有機農業は、公害とインフレ、失業のうずまく現代の商品経済・官僚制社会の中で、単によい食べものをつくる農業技術にとどまらず、人間の生き方や社会のあるべき姿の原形としての意義を持つことが予感されてすでに久しい。いま有機農産物を扱う共同購入や提携運動にたずさわる人々のあいだに、「自分たちがとりくんでいる食べものは商品ではない」ないし「商品であるべきではない」という観念が広くいきわたっている。この意識がたとえ運動の現実の一部分を説明するか理想論にとどまるとしても、「商品を越えた世界」が有機農業運動からみえてきたことの意義は大きい。この項は、食べものをつくる人々と食べる人々との分裂を前提とした商品経済や管理社会を止揚した「小国寡民」の社会を、有機農業が全面的に花を開き実を結ぶ世界として思考する理論的試みの一つである。
「小国」の社会学的根拠
この「小国」は社会科学者のあいだでつとに語られていた「共同体」と基本的にいっちするものであるが、「共同体」の中味が何であるかを究明することは長らくにわたってさし控えられてきた。その理由は概論的にあげるならば、次の3つにまとめられるであろう。
①現実の資本主義社会や管理社会に代わる世界をイメージしたり志向することに恐怖を覚え避けたいとする。
②「共同体」(この項でいう有機農業世界や「小国」)は過去の遺物であり、現代文明が進む目標として受け入れがたいとみなす。
③「共同体」は「生産力の発展.」にとって妨げとなるから、実現すべきではないし、実現する可能性もないと評価する。
②と③の論拠に立つ人々が提出する代案は、いろいろな種類をもつ「社会主義」であった。けれども19世紀に花が開き、20世紀に実現したあらゆる社会主義の試みはすでにピークをすぎてそれらの限界と言動不一致を露呈している。未来に対する絶望を拒否して、人類自らの努力による生存の危機と相互不信の打開を図るには、従来多くの人々が避けてきた「共同体」=「小国」の原理を省みざるをえないのである。
「共同体」または「小国」という社会システムを規定する要素を明らかにするには、当面のところ、過去ないし現在存在している地域共同体の歴史的実証的研究(人類学・民族(俗)学)の他に、現代文明を支配している資本主義と管理社会が招いた悲惨と抑圧の構造分析から対蹠的にイメージされるものをもって手がかりとするしかなさそうである。
「共同体」ないし「小国」の要素として、とりあえず次のものが浮かびあがってくるであろう。
①市場制度と社会的分業の縮小と止揚
身体差に基づく分業は適材適所の原則に則るかぎり認められる。
②搾取と不平等の廃止
能力差に基づく分配格差は認めない。
③自由の実現
情報の入手可能性と意思決定に関する排除と不平等の止揚-意思決定における満場一致性、専業的リーダーないし公務員の廃止。
④基本的社会単位としての地域共同体の確立
旧行政村-「字」-を規模とする地域集落において、基本的に食の自給自足と自治自決を実現する。
⑤中央集権国家の廃止
あらゆる地域間社会組織は連合制を原則として維持される-④に述べた地域共同体は原則として自由にこの連合体に加盟・脱退できる。
以上の諸項目をみるかぎり④を除いて従来の社会主義者(アナーキストを含めて)が描いてきた社会システムと同じであり、いまや平凡にさえみえる。しかし、彼らや現代におけるその後継者たちが実現したものは、右のどの要素も達成しなかったどころか、高度に分業が発達した現代文明の進行に統合されるか協力することに終わった。
その主たる理由としては、どの社会主義の発想の底にも、未来の社会システムを実現するには必ず生産力の発展を待たなければならないとする生産力への拝跪が、多かれ少なかれ横たわっていたことをあげることができる。 つまり、機械と工業化、技術進歩と広域分業に対する無制限の礼讃が彼らの思想のバックボーンを成していた。いいかえれば、人類の営みを生態系の有機的法則の一環に位置づけ、種としての人間の諸活動に規模の限界を画されることを意識化する思想-今日のいわゆる「エコロジー」-が資本主義のみならず社会主義にも欠如していたのである。
社会主義者の生産力志向や機械偏重がその社会組織の論理や実践にも及ぼされてくると、人間組織の機械的システムたる国家機構や企業は官僚制度と暴力装置に対するおぞましいほどの依存を身につけてしまった。
さらに4項目(①②③④)に示された社会システムの性格規定をよく検討してみると、どれも目標ないし結果にとどまるものであり、いま実施すべき手段を明記したわけではないことに気づくであろう。なかでも社会主義者の有力な一部は、これら4つの要素を自ら掲げながら、それらの実現を「生産力が最高度に発達する」遠い将来に延ばし、それらの諸目的に背反する社会システム(「プロレタリアート独裁」と称する強大な国家権力や経済の統制・計画、官僚制度、賃金格差)を過渡期の「手段」として実現した。実際には、いまではこの「手段」であったはずのものが自己目的化、永久化してしまっているといえる。
このように④を欠いた代替案では、生産力規定のない社会規定や、社会的手段を隠した社会目標の羅列に堕することが確認される。したがて、規定④こそが不可欠であることがうなずけるのである。論旨を鋭く言うと、④の項目の言うとおり、地域共同体を社会的基本単位として確立すれば、結果的におのずから①②③⑤が保証されるとさえいいうるのである。社会主義が見落としてきたのがこの④であった。
他方、生態系から人間活動がうける制約を重視するエコロジストや、エコロジーに調和した技術を追求する適正技術論者(これを広義のエコロジストに含めることに異論は少なかろう)は、一部の例外を除いていうと、エコロジーや適正技術に則したオールタナティブな社会システム模索の理論と実現にいまだ充分な成果をあげていない。その源はやはり、先に提示した「共同体」の五大要素の中で、最も重要な「完結した地域共同体の確立』④をかれらが意識的に把握していないことに求められるのではなかろうか。
今日エコロジストがはまりこみやすい大きなわなはグローバリズム、換言すれば「宇宙船地球号」の発想であろう。第三世界における飢餓や難民、、野生動物の絶滅、砂漠化、熱帯雨林の縮小に警鐘を鳴らす国際諸組織の多くは、それらの矛盾を招いた先進国と第三世界との二極構造、そしてしれを推進する資本制管理社会を止揚することにはとりくもうとはしない。この分野にも目的と手段の不一致が表出している。それだけに、前述の④地域共同体したがって「小国寡民」の確立の重要性がいよいよ浮かびあがってくるのである。
以上の考察ですでに明らかなように、「小国」の「国」とは現代人がいう国家(ステート)ではなく、日本語でいう郷(ネーション、トライブ)であり「村」「邑」である。
以下では、「小国寡民」(地域共同体)の必要性と可能性(そして現実性)を証明する根拠を考察しつつ、その「小国」の構成要素を探りだしてみたいと思う。
「小国」の生態学的根拠
<以下工事中です。しばらくお待ちください。続きを読みたい方は画像ファイルでの「小国寡民」をどうぞ>
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