パプアニューギニア造形美術にみえるカミ観念 ―東南アジア・日本を視野に入れた比較文化論

 大崎 正治(國學院大学)

 私は,これまで約20年間にわたってフィリピン先住民の一つであるボントク族を対象として経済人類学を専攻し,それを起点としてネパール、中国雲南からインドネシアにいたる東南アジアの先住民の棚田稲作・焼畑慣行に焦点をあてて研究調査してきた。したがって、パプア・ニュー・ギニア(以下,PNGと略称する)のいわゆる造形美術(文化財)に関しては素人であった。しかしながら,フィリピン先住民の経済人類学を研究してきた立場から,PNGの文化財の背景をなす文化(とくにカミ観念)を、東南アジアひいては日本と比較することは,PNG研究にとって何らかの意義があると思われる。また、この試みはフィリピンや日本の文化研究にも一定の刺激と視野の幅をもたらすはずである。


 1.PNG文化財の芸術性と東南アジア先住民

 私の限られた知見とリサーチから見るかぎり,鶴ヶ島市や今泉博物館(新潟県塩沢町)などが所蔵するPNG,とりわけセピック川流域諸民族,の宗教造形物(これらを今泉PNGコレクションと総称したい)は、フィリピンひいては東南アジアの先住民によるものと比べると,イメージといいデザインといい,ずばぬけて豊かさ・華麗さ・強烈さ・一貫性を備えている。その点では、PNGの文化財は,仏教・ヒンドゥー教・キリスト教・イスラム教(注1)・儒教・道教などのような成立宗教(つまり世界宗教)をもった各地多数民族の宗教文化財と同じ高い芸術的レベルに立つといえよう。(カミ観念の内容がお互い違っていても)PNGと成立宗教のいずれの文化財に共通して,イメージ・デザインにおける明快さが見られるからである。PNGの宗教文化財に成立宗教のそれと同じ「造形美術」という呼称が与えられたのは、この共通性から導かれたものと考えてよいだろう。

 PNG造形物の美的水準をあらわす例をあげると、カミをあらわした彫像や仮面を検討する前に、ちょっとした民具に見られるすぐれた芸術性を紹介してみたい。PNGの住民は、スープを飲む器具としてココやしの殻を半分に割ってつくったお椀を使っているが、PNGのお椀で驚くところはその外側面に線刻された精巧な文様である。フィリピン先住民もこのお椀をどこの家でも使っているが、わざわざ文様をつけたものを見たことがない。その文様の基本は渦巻きと同心円に加えて、各種の動物の顔をデフォルメしたモティーフを混ぜている。基本文様のサイズや向きの違い、いろいろな動物面を組み合わせると、いくらでも違うデザインが出来る。こんな民具にも長い時間をかけて芸術的装飾をほどこすPNGの人々の心と時間の余裕ぶりに頭が下がる。お椀の外面に線刻する発想は、もともと土器と土製品に施した(日本の縄文土器のデザインに似た)陰刻から来ていると考えられる。焼く前の土器と比べて、ココやしの表面は固いので、鋭利な細いナイフを使って陰刻の幅を狭くせざるを得ない。それが線刻である。ココやしの線刻文様のヒントも土器の文様に由来しているようだ(注2)。そのほかに食器(匙・皿・鉢)、武器(槍・戦闘用ハンマー・棍棒・短剣など)の柄部分や、楽器(太鼓・笛・ホルン)の胴部、船具(船首・舳先・櫂)、さらには腰帯などの材料(木やヒクイドリの大腿骨、樹皮)に施した線刻は、土器や先のお椀とまた違ったそれぞれ独自のモティーフを用いているが、やはり精巧でみごとである。

 以上の民具でさえこのように芸術性に満ちているのだから、楯、仮面、彫像(立体像・レリーフ・透かし彫り)、土器になったら、宗教性と芸術性はいっそう高まるのである。

 PNG造形物のもう一つの特徴は,人間自らの身体・顔に化粧(または仮面)を施して,自ら何らかのカミと化してふるまうことが極めて多い点にある。

 その結果,衣装とカミ像との区別が消えてしまう。その分,PNG造形物のイメージとデザインに強烈さと華麗さが増してくる。その典型的な例は、PNG各地(とくにセピック河流域)にある儀礼用・舞踏用被り仮面である(注3)。いずれも、樹皮・木製・ヒクイドリの胸骨を材料にした仮面、時には人間の頭蓋骨に装飾した仮面を顔面にかけ、そのうえ籐や木枠で編んだ骨組みに樹皮・雑草その他を覆った衣裳に全身を包んで、儀礼にカミとして振舞ったり、踊ったりする。

 しかしながらすこし気をつけて見ると、PNG(やオセアニア)の「造形美術」と呼べるものと、東南アジア先住民のそこまで行かない他の宗教造形物との間に太い一線を引くことは案外易しくない。まず、宗教文化の基調がアニミズム(注4)に既定されている点では、東南アジア先住民も(PNGを含む)オセアニアも共通している。

 たとえば,タイ・アカ族の村の入り口に立てられた像はカミまたは祖先人物の像を表している。中国のいくつかの先住民族では,PNGの造形美術に劣らない迫力を感じさせるトーテム像が戸外に建てられている。造形の点で比較的地味と思われているフィリピンでも,稲作の収穫をつかさどるイフガオ族の夫婦カミの像や祭礼の日だけ一時的に立てるボントク族の祖霊像,ビサヤ地方のネグリート系部族が懐中に携行するごく小さな守護霊の像がある。おもしろいことに日本の儀礼造形物にはフィリピン以上にPNGの文化財に共通したものがけっこう見られる。日本各地の祭礼に用いられる仮面や琉球列島はむろんのこと,(北陸・東北などの)本土にさえ現れる異形の衣装つき仮面がそれである。たとえば,西表島のアカマタ・クロマタ,秋田県のナマハゲなどは上に見たPNGの「被り仮面」とそんなに変わらない原始的・野生的オーラにあふれている。 

(注1)イスラム教やキリスト教の一部(プロテスタント)は、宗教文化財 をすべて「偶像」として排斥しているので、あからさまな像は少ない。しかし,アラベスク模様を持ったモスクや屋根に十字架のある礼拝堂などの建造物のデザインはなんらかのカミ観念のシンボルとみなすことができよう。 
(注2)塩沢町立今泉博物館『パプアニューギニアの土器と土製品―収蔵品目録Ⅰ』塩沢町文化・スポーツ事業振興公社 
(注3)a.鶴ヶ島市教育委員会編『パプアニューギニア-神と精霊のかたち』里文出版;b.塩沢町立今泉博物館『パプアニューギニアの仮面―収蔵品目録Ⅲ』前掲。 

(注4)ここでいうアニミズムとは上記のような成立宗教の所産でない民間信仰を指している。


 2.美術品とカミ像―PNGの民芸 

 そう考えて行くと,今泉PNGコレクションをあらかじめ強く「美術品」と固定的にとらえすぎると,見る人に偏った観念を抱かせてしまう恐れがあると思われる。その意味はこうである。これらのPNG文化財はもともときびしい自然環境と豊かな自然認識を背景にして,生産と生活に直結したのっぴきならぬアニズム信仰の表現形態としてあったものである。それに対比して,現代美術は,機械文明によって自然と直接交渉する生産の場と豊かな自然認識を喪失した先進国民の教養・趣味・余暇の対象か,さもなければ少数の文化人の職業的創造の場に終わっている。

 そもそも、前節で見た成立宗教の文化財の美術的「明晰さ」は、近代美術のグローバルな発達の結果、もともと成立宗教の営みから生み出された文化財が拾いあげられて形成・整理されたものと言えるのではなかろうか。すこし説明を加えると,カトリック教の宗教造形物から始まって、ルネッサンスを経て「美術」として自立を遂げた後、アフリカや新大陸、オリエントへ帝国主義的進出をおこなった西洋列強諸国が各地の遺跡から宗教文化財を発掘・収集したものを、価値あるものとして認知して「美術」の中に取り入れた。大英博物館やルーブル美術館などで大量に陳列されている成立宗教の文化財を想起すれば、それは了解されるだろう。だから美術品となった成立宗教の文化財は、「世界遺産」という表現がぴったりあてはまるような過去形の、しかも生活感ゼロの遺物が多い。

 人類学からあえて言うならば、今まではともかくとして、21世紀以後、美術が一般市民の人間性を真に豊かにするには、その場に生産と信仰を取り戻すことが欠かせないと思われる。そのことをすでに70年前に指摘した先達がいた。柳宗悦そのひとである。彼の持論は、真の美は美術ではなく民芸にこそあるという主張であった。彼によると、近代美術は個人主義、金銭・有名の志向に毒されて、一部のインテリだけの職業と化している。美術は生産から遊離しており、美術作品はただ眺めるもの・飾り物に終わっている。その結果、一般庶民が日常に消費する生活物資は美しくなくされ、他方、生活物資の生産者は美を発揮する機会を奪われ、精神的に貧しくされている。柳宗悦は生活と美の総合として民芸の復活・復興を提唱した(注5)。

 柳は声高く信仰の復活を主張したことはなかったが、民芸が常に信仰と共存して息づいていることを語っていた。深刻な環境破壊と庶民の間の深刻な相互不信、家庭・地域の喪失に呻吟している21世紀人類の混沌に痛切な思いを致すと、この際、信仰(自然と先祖を敬うアニミズム)の取り戻しも人類生存に落とすことができないのではないかと考えさせられる。

 この点、今泉PNGコレクションはもともと生活と生産と信仰が緊密に結合して生まれたものばかりである。したがって、それらを「造形美術」というのもよいが、柳の提唱した意味で「民芸」と呼ぶのもじゅうぶん意義があると思われるのである。

 PNGを含むオセアニアと東南アジアとを並行的に考慮する立場から見るならば,先にふれたPNGの「造形美術」と、東南アジア各地の先住民の非(ないし低)美術的な造形物との間にある根源的連続性の視点を大切にしたい。それによって今泉PNGコレクションの個性と価値はいっそう高く評価できるはずである。PNG造形物を民芸と位置付ける第2の意味はここにあると思われる。

  (注5)柳宗悦『工芸文化』(『柳宗悦全集』第9巻筑摩書房所収)。


3.アニミズムの宇宙観-神とカミのあいだ

 現代に民芸とアニミズムの復興を考える見地から根源的考察をすすめてみたい。元来、先住民は自然や他の人間との関わりで,畏怖や畏敬の対象を塑像・画像・衣装(身にまとう衣装だけでなく顔やからだに施す化粧や・仮面もこの範疇に含めておく)の形で表現する。その対象は次の5つに分けられる。

 ① 祖霊, 

 ② 不幸・不吉な死に様を呈してこの世に恨みを残した死霊(悪霊), 

 ③ 霊的働きをもつ動植物, 

 ④ 天候その他の自然現象をつかさどる霊, 

 ⑤ (③,④を擬人化した)万物を創造した至高的な存在。 

 以上の5種類の範疇を総称して「カミ」と呼び、それを表現した文化財をカミ像と呼ぶのはなんら誤りではないだろう。先述した東南アジア先住民やPNGのアニミズムのカミ観念は主として①から④までを含む。PNGの神話でも、部族によってはまれに⑤のカミ観念、つまり神を含むことがある。たとえば、創造神ニオコマドやネハン島の神話における母神チンヘベスなど(注6)。 

 ここでトーテムについて言及しておこう。PNGではトーテムの占める位置が大きい。PNGのアニミズムでは、各部族を構成して数カ村にまたがる氏族(クラン)は、トーテムとして先祖または神話上の始祖とみなされる動植物を信仰する。したがってトーテム(またはトーテム霊)は祖霊①の一部が上のカミ観念②③④のいずれか、ないしそのどれかを兼ねたカミに移行したものと規定できる。PNGの造形美術では、②③④をひとくくりにしたトーテムを「精霊」と呼ぶことが多い。

 アニミズムに対して、古代の世界四大文明の宗教や現代まで多数民族が奉じてきた成立宗教は、例外を除いて、王権にふさわしい⑤のカミ観念をもっぱら重視して、「神」(God(s))と呼んで最高の位置に祭り上げ、他方アニミズムの①から④までのカミ観念とカミ像を「偶像」「邪教」「迷信」として排斥してきた。

 このような成立宗教の神と比較してみたアニミズムのカミ観念の特質は、第1にカミの多様性とカミガミの間の比較的水平(平等)的な関係、第2にカミとヒトとのあいだの水平的親密性にある。第3に、このカミとの水平的関係性を通してヒトが自然との緊密性を保つことである。一言でくくれば、アニミズムにあっては、カミと自然とヒトとの三位一体性が確立されているのである。

 この3つの特質は成立宗教の一つ、キリスト教と比べてみれば、より よく理解されるのではないか。キリスト教の神ヤーヴェは唯一絶対の全知全能の存在、万物の創造主であり、ヒトの最終審判者でもある。神とヒトとの間においてこのように支配・服従の上下関係が構成されると、ヒト同士の関係やヒト対自然の関係においても上下関係を生み、助長しやすいのではないだろうか。つまり、ヒトはただ神の前にのみ責任を負えばよいのだから、政治的建前はともかく、宗教的哲学の根元においては、自然や対人関係について自ら直接慮る義務も責任も持たない。

 つぎに、仏教は一方で神の存在を肯定しないというが、覚者(悟りを開いた仏や菩薩)のあいだの大仏・大日如来を中心に置いたヒエラルキーと、そのサークルにも入れない庶民=無覚者のサークルがあって、上下関係を構成している。この上下関係を絵図に描いた曼荼羅を崇拝さえしている。この世界では、実際には覚者は神的に振舞っているのである。キリスト教と仏教はいずれも現実の階層社会から生まれたから、それを反映して、神や覚者の絶対的超越性を肯定しているのである。

 それらに対し、アニミズムの世界では、カミは文字通り「八百万のカミ 」であり、かつカミ同士比較的対等である。さきに見たように、カミは①から④までいくつかの範疇にわかれるが、その範疇相互の上下関係はない。ヒトは物理的な死後にカミ(霊)となって生きるが、①にも②にも③にも、さらには④にもなりうる。また、アニミズムにおける祖霊①と悪霊②のあいだの二分は、キリスト教や後期仏教のような地獄・極楽(天国)のディコトミー、絶対的差別と異なる。悪霊はたしかにヒトに害をもたらすが、彼らもカミの一員であり、その存在と棲息場所を否定されることはない。彼らは本来的な悪人とはかぎらない。たしかに彼らの中には、ヒトの世界で悪徳・悪業を重ねて、いわば因果応報で悪霊になったものも居るかもしれない。けれども、彼らの多くの前身は、部族戦争で首をとられた(ヘッドハンティングの)被害者であったり、不慮の事故で転落死したり、長い病気で死んだりした、いわば悲運の人たちであった。しかし彼らは、ヤーヴェの神の最終審判を受けたり、閻魔大王によって拷問・報復のような「地獄の苦しみ」に遭うことはない。PNGでは、ふつうヒトは死ぬと、祖霊①と化して山岳部の大地(地下)や湧水池に帰ってゆくが、悪霊②は山頂の森でさまよったり、山の大岩の穴に住むと言われる。ヒトを食う最も危険な「赤い霊」は石灰岩の亀裂に住んでいる(注7)。

 ヒンドゥー教文化で庶民が愛好する劇話「ラーマヤーナ」では善なるカミと悪なるカミ(つまり悪霊)がたたかうが、善者はさんざん悪戦苦闘して悪霊をこらしめるが、抹消・殺戮しないで逃亡させる。このストーリーはむしろアニミズムの色彩を濃くしている。これは、ヒンドゥー教文化が半分成立宗教でありながら、半分アニミズムを残していることを表している。

 アニミズムでは、ヒトとカミとの相互交流が(時には対話さえ)認められている。その回路は、ヒトが死んで祖霊(範疇①や)となることだけでなく、いわゆる輪廻転生によってヒトが自然(カミ範疇③④)にもどる途もある。さらに、生きたヒトはひんぱんに儀礼をやってカミと交流するだけでなく、霊媒を介してカミのメッセージを聞いたり、時にはカミに話しかけることもする。

 カミからヒトへの交渉はよいことばかりではない。カミのうち悪霊(範疇②)は動物・植物にとりつくが、人体にもとりつくことがある。ヒトの生霊(琉球で言うマブイ)をとりこみ、さらって行く。生霊を抜かれると、ヒトは病気や死に陥る。けれどもアニミズムでは、ヒトが祖霊のうち悪霊とよき祖霊(範疇①)とをあらかじめ見分けて、悪霊となるのを予防することはあまり得意でないだけでなく、こだわることもしない。ヒトは悪霊を始末することは尋常では出来ない(注8)。普通のヒトはただそれを怖れかしこみ、なだめ、さもなければ遠ざけることができるだけである。鎮魂や儀礼・供儀の意味はここにある。ヒトは悪霊の悲しい前身に同情を表すときもある。アニミズムはヒトやカミについて単純な性善説にも性悪説にもつかない。したがって、良き祖霊には悪霊から守護してもらうため、悪霊にたいしては彼らの怒り・恨みを買わないようにするため、区別なく祖霊やカミに水とたべものを供養しておく。たとえば、PNGのタミ島に10年に1度訪れるタゴという名の精霊は滞在している間に、村を破壊してまわり、大いに迷惑をかけるが、ヒトビトはこの暴れん坊の精霊に食べ物や贈り物を与えたり踊りを見せたりする一連の祭礼を1年間も続けねばならない(注8)。

  (注6)a.ストラウス&ウィルソン『パプアニューギニアの民話』未来社;b.『新装世界の民話―パプア・ニューギニア』ぎょうせい。 c.ちなみに、日本のヤマトや琉球の神話やアメリカ・インディアンの神話でも国造り神話があって、⑤の創造神が存在する。しかし、いずれも唯一神のような絶対的優越性はない。 

 (注7)a. R.Rappaport, Pigs for the Ancestors-Ritual in the Ecology of a New Guinea People, Yale University Press ;  b.吉田集而『性と呪術の民族誌』??。

 (注8)注6b参照。有害な悪霊を殺す稀な神話を紹介している。


 4.共生のアプローチ―アニミズムの社会・環境観 

  このようなカミとヒトとの交流や水平的関係に支えられて、より根源的にはカミ・ヒト・自然の間の三位一体から派生して、アニミズムの第4の特質が出てくる。それはヒトとヒトの間の友愛と共生である。カミとつながった個人の本源的尊厳と責任を行使しつつ、他のヒトと相互に自立的に・対等に振舞う。いわば、アニミズムにおいては現世の自立・友愛・協力は宗教哲学的に保証され義務付けられているのである。アニミズムでは、生きたヒトや自分個人に対しても、(祖霊・カミにたいするアプローチと同様)善人か悪人か断定することを避け、アンビギュアス(amviguous)な世界を敢然と受忍して生きる。仏教の『般若心経』で唱える「不生不滅、不垢不浄、不増不減」「無無明亦無無明尽」の境地はアニミズムではすでに到達しているといえる。自分に対しても他人にたいしても、ともに個人の明るい側面を助長し、その弱さを、抹消するというより補い活かそうと努める。なによりも、上で述べた宗教的三位一体によって、ヒトは元来カミの候補であり予備兵である。いわんや、地獄に落ちる心配はないのだから、死後を恐れたり、絶望や自暴自棄にかられて現世を刹那的に生きる快楽主義にはしる必要もなかったのである。

 キリスト教徒はしばしば「神の前の平等」を誇りにするが、実はそれは本来のヒトどうしの直接的平等・友愛を意味するのではなく、ヒトビトはただ神を介在させてしか相互に繋がらないことを宗教哲学的に許されているのである。したがって、この宗教は対自然関係と同様、個人の人間社会についても根源的レベルでの不可知論、つまり無責任感覚におちいっているとみることが出来る。政治における西洋流民主主義の標榜と、宗教哲学的背景の非民主性とのアンバランスに気づいて、思わずたじろぐ人も出るにちがいない。私たちはアニミズムの立場から出発して、西洋民主主義とは異なった独自の民主主義制度を開発することが望まれる。

 アニミズムは、自然に対しても上の人間社会論と同じ共生のアプローチをとる。前節のカミ観念のリストに、自然を構成する動植物や・天候(正確にはそれらにとりつきそれらを支配する精霊)はちゃんと入っている。また、すでに明らかなように、ヒトは祖霊や他のカミに転生して自然に戻る。だから、自然破壊など論外である。フィリピンの先住民は、水田を開くときでも大岩を取り除くことをこわがる。「アニート」(本論でいう祖霊カミ)が怒るというのである。とくに、PNGの宗教のようなトーテム信仰があれば、誕生前も死後も、自然(動物か植物もしくは大地)から生まれそこへ戻るのであるから、なおさら自然環境の破壊は出来ないことになる。

 それにたいし、キリスト教の『旧約聖書』でよく知られているように、ヤーヴェはヒトに万物の霊長たる地位を与え、「生めよ増やせよ、自然を支配せよ」と激励した。近現代の底知れない環境破壊は近現代技術文明が前提するキリスト教にさかのぼるのである。


5.PNG造形美術にみるカミ観念の特徴

  PNGの造形美術でカミ観念がどのように表現されているか、今泉コレクションの図録・目録で調べてみよう。今泉博物館に収蔵された彫像の場合、カミ観念の分布を見ると、祖霊像がかなり多く現れている(注9)。他方仮面では祖霊像の比率が低い。とくに、全身を包む被り仮面ではほとんどトーテム霊であることが特徴的である。トーテム霊のカミ観念上のタイプを決めるのはなかなか複雑・困難であるが、第3節で仮定的に規定したところに従えば、精霊(範疇②③④)に属する。

  PNG造形物で「祖霊像」とよばれるものは「精霊像」や「神像」と比 べていうと、デザインの点で抽象化・様式化・デフォルメの度合いが少ないという印象を受ける。ところが、実際に今泉コレクションの目録で「神像」と言われている彫像・仮面と「精霊像」や「祖霊像」の像・仮面と仔細に比べてみると、モティーフやデザインにおいてはっきりした違いを把握することはなかなか容易ではないようである。

 「神像」「祖霊像」の区別をアトランダムで調べていっても、デザイン・モティーフからみてまったく同じ二つの彫像が、一方で「神像」とされ他方が「祖霊像」と呼ばれるということがしばしば起きている(注10)。

 より詳細に検討すると、生産地が同じ地域(セピック・ケラム川上流域)や近隣村であるだけでなく、同じ民族(バナロ族)によって製作されたもので、眼が大きく、まるでくちばしのように長く尖ったアゴ・クチを持ち、ディズニー漫画のウッドペッカーにそっくりな顔面をした人体像が、『目録Ⅱ』で実にたくさん収録されている。この中で「神像」とされているものは「精霊像」とされているものよりすこし多いが、モティーフとデザインについてみると、両者の違いはほとんど見あたらない。だとすると、すべて「神」とするか、さもなければ「精霊像」とよぶか、のいずれかが合理的と考えたくなる(注11)。

 ウッドペッカー型の顔面像は仮面の場合には、神の像はいっさい消えてしまい、そのかわり「精霊像」がほとんどを占める(注12)。これを考慮すると、彫像と仮面とを統一して整理する便宜からいうと、ウッドペッカー型に限り、彫像の「神像」を「精霊」に統一化するほうがよいと考えられる。

 また、まるで水中ゴーグルを顔面にかけたかのように、眼が飛び出した顔を持った彫像や仮面も見るものの注目をひくと思われる。このデザインは、眼球部に子安貝でなく巻貝の螺塔の截り輪(きりわ)を用いて表現される。このモティーフの彫像の多くが「神像」と呼ばれている(注13)。では、この範囲の図像で見たカミ観念のあいだでどのように違いがみられるだろうか。実は三者の違いは大してないといっても過言ではない(注14)。より深い研究の必要を覚えるのである。

 ところが、仮面になると、ゴーグル型のモティーフはぐっと増える。そして「精霊像」が一番多くなる(注15)。このゴーグル型仮面に限って言えば、「神像」と「祖霊像」は無視できる。したがって、ゴーグル型彫像で実際に区別がなく、仮面で「精霊像」が大多数である事実を勘案すれば、ゴーグル型造形物は概して「精霊」だと結論したくなる。 

 以上のモティーフもさることながら、ヘビとワニとトリ(おそらくサイチョウ)が合体した動物に頭と肩にのしかかられた感じのモティーフこそは、PNGの造形美術のなかでもっとも強烈な印象をあたえるものと思われる。このモティーフの人物彫像でも「神像」はきわめてすくなく、「祖霊像」が圧倒的に多い(16)。動物は守護霊またはトーテムであろうと推測できる。そのことを考慮するなら、この種の造形物の主たる崇拝対象は人物像よりその上や背後に居る動物(したがって何らかの精霊②③4)と考えられるかもしれない。そうすると、『目録Ⅱ』でいう「祖霊像」はむしろ「精霊像」と呼び変えねばならなくなる。いずれにしても、『目録』の表記をそのまま受け取る場合でも、「神像」とされる彫像を「祖霊像」と仔細に比べてみたら、両者の違いは見出しにくかった(注17)。

 以上の端緒的検討にかぎってまとめると、神像と呼ばれているものでも神独自の存在感が希薄である。神という観念がもともとPNG、東南アジア先住民で縁が薄いことは、第3節で理論的にはっきりしておいた。PNG文化財での調査もそれを裏付けていると結論してもよさそうである。ただ、文化財を扱うコレクターや博物館職員・アンティークショップの間で文化財の命名がいぜんとして前に触れた成立宗教や西洋文明至上主義に傾くことがあるため、問題が起こるのではないかと推察される。ちなみに、PNGでもカミ像をピジン語のMasalaiで呼ぶことがある。これはキリスト教を受け入れたPNG国民の一部にある程度「神」の観念が浸透しつつあることを反映しているかもしれない。しかし、ここはむしろ天理大学の『ひとものこころ』のようにMasalaiを「精霊」と訳すのがふさわしいのではなかろうか(注18)。

 では儀礼や神話などの宗教文化における祖霊と精霊の活躍度合を知る手だてとして、造形物の頻度を調べると、すでに明らかなように、精霊像・仮面の出現頻度はかなり高い。統計的データを示すことは困難だが、フィリピンの先住民(すくなくともコーディレラのそれ)では精霊の役割はわりあい低い。それに反して、自然災害や病気やゆゆしい事故は祖霊(アニート)のしわざと考えられている。すこし細かくいうと、ボントク族は台風や天候の場合だけ、アニートでなく「ルマウィク」という民族英雄に向かって祈祷する。ボントク族の神話によると、彼は変幻自在に姿を変え、テレポーテーションも行い、人間の娘とも結婚する。ルマウィクはPNGのクラン始祖やトーテムの精霊に該当するかもしれない(注19)。

 このように、PNGの文化財で精霊と祖霊がいずれも頻出しているとして、 『目録』の上でデザイン・モティーフからいってどの程度違いを表現しているだろうか。すでにゴーグル型彫像において、神だけでなく、「精霊」と「祖霊」との間にも区別がなかったことが判明している。アトランダムで調べたところ、ごく細かい違いが認められたが、カミ観念の差を現すほどの程度に至らないといわざるを得ない(注20)。 

 (注9)塩沢町立今泉博物館『パプアニューギニアの祖霊・精霊像―収蔵品目録Ⅱ』による彫像の項目別分布

祖霊像        458点

精霊像        133 

神像         117 

農耕儀礼           30 

頭部彫刻             18 

子孫繁栄祈願の像        6 

ほか雑              60  

計                822

 農耕儀礼用彫像は主としてヤムイモ収穫儀礼用を含む。頭部彫刻は頭蓋骨装飾ではなく、木や土で頭部を作るものである。

 (注10)たとえば『目録Ⅱ』No.4対5(前者が「神像」、後者が「祖霊像」。以下同じ)、No.21対20、No.181対180など。

  (注11)『目録Ⅱ』No.330から332、335から346まで、356から359まで、362から415までの計73点のうち、「神像」⑤は40点(そのうち模造品は3点)、「精霊像」②③④は28点、「祖霊像」①は4点ある。ほかに「神像(精霊像)」という二重表記が1点ある。 

(注12)75点のうち、精霊73点、舞踏用および儀礼用各1点。

(注13)14点のうち、神像6点、祖霊3点、精霊2点、その他3点である。 

(注14)『目録Ⅱ』Nos.276,277,278,279,280の比較。なお、No.782は「話し手の椅子」と呼ばれ、No.792は「神像付椅子」と言われているが、この二つは同じ村で製作され、モティーフ、デザインともになんら相違はない。 

(注15)前掲『目録Ⅲ』中では少なく見積もっても108点もある。そのうち、神⑤はゼロ。「精霊」②③④が88点、祖霊像①と切妻装飾仮面はいずれもわずか3点、農耕儀礼仮面を含む儀礼用仮面が20点ある。切妻装飾仮面というのは、それ自体カミ観念を表す概念ではないが、ハウス・タンバラン(精霊堂)の切妻に掲げられる仮面ともなると、祖先に関係する霊だといっても、多くは当該の村を構成する氏族(clan)の開祖の地位に立つ重要人物ないし氏族トーテムであり、さきに述べたように、霊力の強い精霊になっている。 

(注16)計79点のうち、「神像」8点、「祖霊像」65点、「精霊像」3点、そのほか雑項目が3点ある。 

(注17)たとえば、No.579対580(前者は「神像」、後者は「祖霊像」)、582対581、591対592、612対611。 

(注18)a.『ひとものこころ―パプア・ニューギニア』天理教道友社。(なお前掲注6bでも、マサライを「霊」と解説している。) b. A.Strahtern”Las toktok bilong Ol Masalai”, in (ed.Lutkehaus et al)Sepik Heritage?Tradition and Change in Papua New Guinea, 1990. ここでMasalaiをgodsでなく「ghosts」と英訳しているのは妥当と言えるだろう。 

(注19)大崎正治『フィリピン国ボントク村』農文協。 

(注20)『目録Ⅱ』No.662対666(前者が精霊、後者が祖霊、以下同じ)、『目録Ⅲ』No.54対56、515対516、957対958 


6.結び

  近代西洋文明は、前述したように地球の隅々まで浸透し,一方の手でキリスト教を布教しつつ、他方の手で科学技術と近代教育制度を持ちこんで,とりわけ世界各地のアニミズムのカミ観念を封じこめ解体してきた。現代世界でアニミズムが脈々と生きているところは先住民が住む地域に限られている。いま手の施しようもないほど進んだ地球環境破壊と各地に頻発する難民問題は、アニミズムのカミ観念の排斥や殲滅をある程度完了した結果であるとみることも不可能ではない。ちなみに日本は,爛熟した近代科学技術文明にみちあふれているが、他方で祭礼のなかでアニミズムの慣習を活発に残している。つまり絶望と希望とがみごとに混在するユニークな国がわが日本である。

  以上の考察を通して、鶴ヶ島市に収蔵されたPNGのカミ像は,単なる「美術品」の域を越えて,新たな人間回復の知恵とヒントを与えてくれるものと受け止めることができるのではないだろうか。すなわち,これらの像を前にして,人々は,世界的な破壊システムとなった近代西洋文明の反省と組替えを迫られ,同時に,人間生活の豊かさと環境の間でバランスを図り,既存のカミ観念の単純な復活はともかくとして,互いに異ったカミ観念を持つ文化(ないしその担い手集団)の間で敬意をこめた共存を図ることを、PNGの文化遺産から教えられる気がするだろう。成立宗教のあいだの争いが今も世界各地で燃えているが、それを克服して世界平和を築く道は、先進国が改めてアニミズムを認めて、支援をあたえることである。

 上の筆者の論旨にほぼ同じ宣言を、鶴ヶ島市教育委員会はすでに1996年に名文で述べているので、ここに採録する価値が十分あると思われる。 

 「アニミズムを信仰し、まさに自然とともに生きる南太平洋の先住民の人たち、とくにパプアニューギニアに代表されるメラネシアの人々が作り出した造形作品には、私たち現代人の心を揺さぶる不思議なインパクトを感じさせるものがあります。それは彼らの生活や生き方と密着した造形物であり,いわば芸術の原点といっても過言ではありません。経済至上主義や近代合理主義の名の下に、私たちがどこかに置き忘れ、失いかけた強い精神性がそこにあります。これらの芸術作品に触れ、彼らの生き方を観察し、考えるとき、私たちはそこに、人類の未来を逆説的に暗示するものを見、またさまざまな思考の機会を与えてくれる何かを発見することができます。」(注21)。

  本論の考察から導き出されるもう一つの結論として、PNGや東南アジアのカミ像を「神」「神々」「神像」と訳すことにもうすこし注意を要するということである。なぜかというと、「神」と訳すと、この訳を見たり読んだりした人をして無意識のうちに、上に述べた先進国や成立宗教の側のおごり、アニミズムへの軽視・誤解を抱かせる心配があるからである。

  PNG文化財を材料に本論で行ったカミ観念の実際的検討は、膨大な今泉コレクションのほんの一部を扱った試論に過ぎない。まだまだ他の資料にもあたってはじめて結論を出すことができる。ここではいまだ中間報告の域をでないものであることをことわっておきたい。 

 おわりに、シリーズで目録を出版された今泉博物館の功に敬意を表するとともに、その目録を利用させていただくと同時に保存物を観察することを許可していただいたことに謝意を述べたい。

  (注21)既出(注3)『パプアニューギニア-神と精霊のかたち』巻頭「ごあいさつ」     

(共著『知流を超えるもの――オセアニア美術にみる』2005年3月、掲載)  

Oosaki Speaks

経済人類学と環境経済学の総合を志して研究し、國學院大学でその分野の講義(「民族と経済」「環境と経済」「消費社会論」「ゼミ-森と水の経済学」)を担当していました。また、ATT流域研究所という市民の環境科学の運動に参加しています。 今、力を入れているのは、世界で流行中の「持続的開発」について厳しい検討をくわえることです。これからは「エコ・ツーリズム」についても検討してみたいと思っています。

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