大崎正治(國學院大学)
現代の日本では大多数のひとびとは、GDP(国内総生産)あるいはGNP(国民総生産)を豊かさや幸福の指標だと判断して、その追求にあけくれている。なぜ幸福・豊かさを直接追求しないのだろうか。今回はそれを検討してみたい。
GDPが真の福祉をあらわしていないという反省は、とくに環境問題にかかわって言われている。市場メカニズムに任せておく限り、公害(外部不経済)を受けた被害者が補償されない。反対に、都市集中や規模の経済によって、一部の企業が対価なしに収益を増やすことがある。以上のような市場の欠陥を補う内部化(公害補償制度や環境税など)はなかなか実現が難しい。この対策として、GDPに代わる「国民福祉指標」が開発され、一時は注目と支持を浴びた。けれども、それは国民にあまり浸透しないうちに、支持も熱意も薄れてしまった。その大きな原因は、豊かさを経済指標で測ろうとする経済至上主義がまだまだ根強いからではないだろうか。
したがって、以下の小文の意図は、この国民福祉指標の普及を喧伝するのではなく、豊かさをそのまま味わうことを読者に伝えることにある。
日本の「豊か」の古い意味は、「物が満ち足りているさま」や「心のゆとり」をあらわす (『角川古語大辞典』)。「金もち」という言葉はようやく近世に現れた(同上)。
漢字の「豊」の原義は儀礼の器に供犠をうずたかく盛り上げた状態を指す。そこから、物のあふれた様や心(愛情・寛容など)の広いことを「豊」と表現するようになった(諸橋『大漢和辞典』)。「富」ももともと神に捧げる酒樽の膨らんださまを示す。そこから「富」は財をあらわすとともに「さいわい」という意味をも持つ。「富」が金銭を指すのはその敷衍にすぎないといえる(同上)。
他方、英語の「rich」は、本来において資源・美・色・衣料が多いことを指している(The Random House Dictionary of the English Language)。richはまた、ドイツ語のReich(王国)と同じ語源(王を意味する)から出ているとされている。「wealth」という言葉も物や土壌の多いことを意味し、語源の上でそれは「well」(満足、良い)と通じている(Ibid.)。
ちなみに、自給自足をまだ多く残しているフィリピンの先住民ボントク族の村では、豊かなひと・家族のことをカダングヤン(kadangyan)と呼んでいる。その内容をよりくわしくみると、カダングヤンは遺産として水田を多く持つだけでなく、寛容で村びとをよく助けリードできる高貴なひとでなければならない。村外で出世して、金を貯めて成り上がっただけのひとはナバクナン(nabaknang)と呼ばれても、カダングヤンと尊敬をもって言われることはない。
以上の語義分析から導かれるのは、「豊かさ」がカネや所得の額に比例すると考えられた のは近代資本主義以後、とくにGDPを経済規模の指標にした第二次世界大戦以後の歴史上最近のことにすぎないということである。
私はGDPや経済所得の虚構性を明らかにするため、以下の3つの経済的寓話を挙げてみたい---①「蚊のいる国といない国」、②「花見酒の経済」、③「お手伝いさん」。
①は都留重人氏(元一橋大学学長)が創唱した寓話である。A国とB国は人口・資源・経済活動などすべてそっくりであるが、ただひとつの違いがある。A国には蚊がいるのに、B国には蚊がいないことである。蚊がいるA国では蚊取り線香が売れて、所得が追加的に発生するが、B国は蚊取り線香が売れないので、所得の規模が低く現われる。しかし、健康・福祉の観点からいえば、蚊がいないので、その分所得が低いB国のほうが好ましい。
②は随筆家笠信太郎氏の創唱した寓話を都留氏が採録したもので、皆さんご存知の落語 「花見酒」からとったものである。八ツあんと熊さんは、桜の花の見物に出る群集に酒を売ってもうけようと考えて、天秤棒の前と後ろを担いで酒樽を運んでいた。そのうち、うまい酒の匂いに魅かれて、一人が100円を相棒に払って一杯飲みだした。仲間も、「それなら俺もと、その100円をまた相棒に払って一杯飲む。こうして100円が二人の間で往復しているうちに、せっかく運んできた樽をすっかり飲み干してしまった。
笠氏と都留氏はこの寓話を用いて経済インフレのメカニズムを説明・批判したが、私は別の意味でとりあげてみたいと思う。一杯100円の酒は、花見客のような他人に「売る」という関係では「所得」を生む。ところが、八ツあんと熊さんのような親しい友人のあいだでは所得を生まない。しかし、人間の生きがいにはこの二人の関係のような友人・家族・地域の共同性は欠かすことができないだろう。
③は私自身が追加した寓話である。花子は毎日太郎の家に行って食事と掃除をやっていた。ところが、二人が結婚して夫婦になったとたん、二人の所得合計が以前より減ってしまった。花子は夫から前と同じ金額をあずかって同じ家事をしているのに、こうなった。なぜだろうか。二人が他人の関係だったときは、太郎が花子に払った「給料」の分だけ、国(たとえば税務署)に「所得」が多く申告されていた。しかし、夫婦の間柄では、配偶者のやる家事労働や受け取る金額は「給料」や「賃金」ではないからである。
読者の中には、この寓話を「妻が虐げられている」話と受け取り、「夫は妻に賃金を払う べきだ」と考える人もいるかもしれない。だが、私の真意はそうではない。上の寓話でお手伝いさんを太郎のほうがやった寓話としてもよいと考えている。私は、いったん配偶者の家事を賃金労働とみなしはじめたら、他の雇用者のもとで働くほうが賃金が高くてよいと考えることを促し、結婚自体崩れる方向にむかうと憂慮するのである。
上の3つの寓話から読み取れることはたくさんあるが、人間にとってベーシックな自然環境や共同性(それは人間の社会的自然と呼べる)が壊れれば壊れるほどGDPは増えるという恐怖が見えてくるのではないか。現代日本経済はこの寓話をすべて実現してしまっているのだ。
(『時局』35巻5号―2002年5月、掲載)
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