持続的開発はありうるか -意味論的吟味と貧困

大崎 正治(國學院大学)

 反省期に入った持続的開発

 「持続的成長」とか「持続的開発」とか(以下ではひとくくりにして「持続的開発」sustainable developmentと呼ぶことにする)世界の合言葉になってもう20年以上になる。思えば、G7やG8の世界先進国首脳会議から各国末端のNGO会議のたびに、それは崇高な理想として誓約されてきた。すべての国を挙げてあらゆる勢力の間でこのような同じ目標・政策が掲げられてきたということは、一見誠に平和で結構なことに思える。

  物質的規準からみるならば、「成長」と「開発」を成し遂げた現代の世界はまさに人類の絶頂期にあるとも言える。開発途上国を含めて一人あたりGDPやヒトの平均寿命は大方の国で延びたし、テレビや交通・通信は極度に発達して、地球の片隅に起きた事件が瞬時に報道される。ヒト一人あたりエネルギー消費量は産業革命の前に比べつと、現代は100倍に上昇している。わが国の現代庶民の食生活は江戸時代の大名の子女並に高いと言われる。

  けれども、この物質的豊饒の中で、自分が幸福を得たと言い切れる人は、全体でごくわずかしかいないだろう。足元を見ると、寒心に耐えない現実が山のように蓄積しているのは周知のごとくである―曰く、BSE、環境ホルモン、地球温暖化。日本では、かつて私たちと共存していたホタル、アユ、トンボ、日本種のメダカなどは、従来の形の公害対策をいくら施しても戻ってこない。大気も水質も最悪状態を脱しただけであって、美しい自然が回復したとはいえない。その結果アレルギー症状、アトピー患者、肥満児は普遍化している。他方、開発途上国では、かつて公害先進国だった日本よりひどい水俣病や公害が広がる一方である。そのうえ、世界規模のGDP(国内総生産)格差は拡大する一方であり、世界食糧不足の危機はますます募るばかりである。 

 しかも、科学技術の発達と符節を一致して家族・地域の荒廃は眼を背けたくなるほど進んでいる。その結果、宗教的節度の後退とあいまって現代人類の欲求不満は極度なところに進んでいる。それに加えて、アメリカ合衆国のヘゲモニーにひとしいグローバリズムがテロルの蔓延を誘引して、世界中がパニックに駆られている。

  したがって「持続性」(sustainable)となると、その実現性は大いに疑わしいといえる。持続性と開発を兼ね備えた「持続的開発」をどこでも誰でも異句同音に語っているのなら、それはとっくにどこかで実現していなければならないはずである。いったいどこに見つけることができるのか。「持続的開発」を何年続ければ「持続性」が確保されるのであろうか。この二つの質問に対して、誰も肯定的に答えられないだろう。これほど長きにわたって人類のおおかたが同意しているのに実現できていないとするならば、その合い言葉や政策は壮大な失敗であったと結論してよさそうである。グローバリズム化した現代世界経済体制が成長病・開発病にかかっていることはつとに周知のところである。「持続的開発」は、永遠に実現しないけれども、人々に現代国家体制の本質を隠蔽する、いわばウマの鼻先にぶらさげたニンジンの役割を担ってきただけではないか。

  本稿では主として、「持続的開発」の概念が本来虚構であったことを意味論的に追求する。貧困救済を理由に「持続的開発」が開発に偏していることを証明し、結論では、模索すべき社会理論の方向をスケッチしてみたい。

 

「持続的開発」概念の意味論的吟味

  言葉を武器にして人心をつなぎとめて自己の利益を計る仕組みは、かつてヒトラーやスターリン、毛沢東、戦前の日本軍部のような独裁者が、暴力装置とともに多用した手段であった。だが大量生産・大量生産の時代である現代では、あからさまに暴力を避ける代わりに言葉による手段がいっそう発達してきた。とくに、新しい造語や同じ用語の新解釈を世論に押し付けて、早くいえば、人々を煙に巻いて売り込むことが日常化している。だから、今こそ先祖から引き継いだ言葉を守ることが、自分を守るために過去の時代より重要となってくるのだ。「持続的開発(成長)」をこの視点からも吟味しておく必要があると思われる。 

 漢和辞典(注1)をひもとくと、「発展」は①のび広がる ②栄える ③低い段階から高い段階に進む、と定義され、他方、「開発」は①封を切る、②知識を開く、③土地を切り開く、となっている。われわれは上の単語の意味をいっそう確かめるため、それぞれを構成する各文字の原義にさかのぼって分析してみよう。まず、「発展」や「開発」の言葉を構成する「発」は①矢を射る、軍をつかわす、②生える、のびる、③あばく、などを意味する。「展」は①死者の衣をひろげて調べる、②のばす、③記録する、である。他方、「開発」の「開」は①門戸をあける、②封を切る、③土地を切り開く、④知能をひらきおこす、と定義される。

  他方、英語developは、①広げ開く、②発見する、③潜在した物を表に出す、④成長させる、である(注2)。ここでは、日本語で言う「成長」「発展」「開発」がすべて同一視されている。ちなみに、developの原義が「封を切る」という意味であった点で、英語と和漢語の「開発」の原義とが同じであることを忘れてはならない。 

 ところで、英語では上に見たように「開発」も「発展」もおなじdevelopmentであるが、和漢語では「発展」と「開発」がしっかり区別されていることは興味深い。現代でも、日本の新聞記事で「開発」というとき、建設業や不動産業者による「土地を切り開く」行為、さもなければ新製品の発明・製造・販売を指すことが圧倒的に多い。中国語辞典(注3)では、「発展」と「開発」との区別はさらに明瞭で、前者は①開拓、発掘、②能力や技術の新展開、後者は①発達、②拡大、である(注4)。日本では「持続的的開発論」者でさえも「発展」と「開発」との区別を踏襲していることはほほえましい。たとえば、彼らは、「永続的発展」や「内発的発展」と言っても「永続的開発」「内発的開発」とは呼ばない。ここにもまだ日本語のデリカシーがまだ生きているようである。

  他の一部の持続的開発論者は英語のdevelopmentのまま「発展」と「開発」を同一視している。たとえば、「人々の生活福祉の改善向上を目的として、その経済・社会・文化などの発展を図る一連の行為の過程」を「開発」と呼んでいる(注5)。別の持続的開発論者は、「開発」に以下のような拡大解釈さえ加えている。すなわち、真言密教の用語から引っ張ってきて、「内なる仏性を明らかにする」という意味を「開発」に見いだしている。だが、それは古い宗教的テーゼを軽々しく現代社会の政策用語に変えたにすぎない。すでに日本の中世・近世でも、「開発」(当時カイホツと読んでいた)が土木工事を指していたことは明瞭である。「開発」に仏教的典拠を求める動きは、タイ仏教の僧侶の一部が「開発僧」と名乗って、瞑想を勧めつつ積極的に草の根運動を展開している姿に刺激を受けたものと思われる。けれども、タイ仏教僧侶によるこの運動自身が欧米やタイ政府の資金的支援を受けてきた関係で、自己の運動を「開発」と呼ぶに至ったことは予想できるものである。これは、フィリピンのキリスト教が「心の開発Spiritual Development」を唱え、どの教会でも「開発部局」を持っている事実とも機を一にしている。

  つぎに、「持続」の原義を分析してみたい。日本語、中国語のそれは「保ち続ける」であり、英語sustainも同様に「保持する」ことである。この用語はじつは、天然林の「極相」にならったドイツの林学思想「保続的森林」から来ている。一定面積の天然林は太陽エネルギーを受ける量が一定であるから、そのまま経過すると必ず極相に至る。そこでは炭素同化作用による炭素の総蓄積量と呼吸作用による炭素消費量が拮抗して、森林のバイオマス総量の成長が止まる。だから、森林には「永続的成長」はありえない。しかし、個々に見れば、枯死する樹木があっても、その後に芽生え・生長を果たす樹木がある。だから、若い樹の生長を許すには老木の死亡が必要なのだ。それこそバランスのとれた生態系の理想である。人間の人口の理想もほんらい同じではないだろうか。

  保続的森林を経済学の用語に言いかえると、単純生産または定常状態を意味する。それはかつて古典経済学の理想であった。止まらない成長は生態的破滅にいたる途なのだから、「持続的経済」はあっても、「持続的成長」や「持続的開発」はありえないのである。

  まとめてみると、「発展」も「開発」も森や地域、伝統を外部の力で荒々しくこじ開けることを意味する、きわめて工学的な用語である。他方、「持続」は自然や生物本来の営みが本来備えているバランスを維持するもので、本来的に「自由」を志向する言葉である。だとするなら、この相容れることの出来ない両概念をくっつけて平気でいられる「持続的開発論」のセンスが環境擁護や自然尊重の精神からずいぶん遠いことは明らかである。

 「持続的開発」を唱える人は、自己の新しい経験・発想を広めるためには、新造語を発明したり古い用語に新解釈を施すことは問題なく必要だと考えがちである。しかし、彼らは、自分たちも先に見たようなヒトラーやスターリンらと同様な言語的暴力を振るっていることを自覚していない。

  思えば、近代の知識人はみずから言葉を使う職業にありながら、総じて言葉に不信の念を抱きがちであった。たとえば、ヘルマン・ヘッセは「言葉は実際には仮面である。真の意味を伝えることはまれであり、むしろ真実を隠す傾向がある。」(注6)現代の言語学者の多数も、時代の流れに即して言語が変わること、ときには少数民族の言語が絶滅することさえ、肯定しがちである。しかし、このような言葉に対する慨嘆・不信と効用中心説のままでは、言葉を用いて人心を操る策略に慣れてしまうか、ないしその操作・策略に積極的に加担する恐れがあるのではないか。そのむかし人類は長い長い世紀にわたって、言葉を大事にしてきた。古代や中世の知識人のほうが近代人よりはるかに言葉に尊敬を払い、その正しい使い方にこころを砕いたようだ。この健全な言語観をまれに受け継いだ人に、サンテ・グジュペリがある。彼はつぎのように述べた。「こんにちの世界をつかむために、我々は昨日の世界を表現するためにつくられた言葉を用いる。過去の生活は我々の真の性質により近いように見えるが、それは過去の生活が我々の言葉により近いからだ。」(注7)これは、つぎに引用する『新約聖書』の一節をまるまる繰り返したかのように思えるほどである。

  「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・すべてのものは、これによってできた。この言に命があった。」(注8)これはたしかにキリスト教の原理であるが、また同時に世界各地のアニミズムにも共通した考え方であった。むろん、日本や中国の「言霊」信仰にも通ずるところが多くあると言えるのではないか。漢字の「言語」とは、地霊を鎮める古儀、予祝のための呪言を指していたという。ほかの漢字の基本形も神への対話・交流から生まれたことは甲骨文の研究から分かっている。(注9)日本の古代歌謡や祝詞もほんらい神からの託宣であったし、後にヒト(神主)から神へのよびかけの手段になったことも、折口以来の民俗学の古典から明らかである(注10)。

  以上を考えていくと、「持続的開発論」が近代主義をいまだに強く追求していることがわかる。  


「貧困」の経済人類学―GDPのからくり

  「開発」の拡大解釈の代表的な典型は、それを「貧困対策」とみなすブルントランド委員会の報告(注11)にみられる。その理由に、彼らは「貧困は環境を悪化させる」という。けれども、世界のレベルで見ればそんな現象が起こった例は少ない。大局的にみれば、GDP(国内総生産)と汚染量とは比例してきたのが事実上の法則だ。その一例を挙げると、地球温暖化対策を取り決めた京都議定書で、二酸化炭素発生量削減の義務をGDPの高い先進国に課したのは、この法則を世界中が認めたからである。発展途上国の都会や工場地帯の大気や河川に比べて、先進国のほうが美しく見えるのは、後者が排出対策に膨大な投資をかけているからである。

  皮肉なことに、貧困対策を理由にする「持続的開発論」の元祖は、実は1960年代アメリカ政府国防長官時代にベトナム戦争を遂行した責任者マクナマラであった。彼は70年代に世界銀行総裁に就任したとき「貧困対策」を提起した。それ以来、世界銀行とその発展=開発プログラムが世界支配戦略の段階に登ったのである。つづいて75年、国連事務総長を辞めたハマーショルドも「もう一つの開発」と言う名で貧困対策をよびかけた。そして、そのときから、世界のNGOや開発途上国も、同じように「途上国にも開発の権利がある」と声高に要求しはじめ、今なおくり返している。彼らはもう20-30年にわたって、国連総会その他の機関で環境を扱う特別会議を開くたびに、「環境を扱うなら途上国の開発を含めよ。さもないと環境会議の開催を許さないぞ」と大合唱を続けて、先進国はそれに同調してきた。地球サミット(1992年)もヨハネスブルグ・サミット(2002年)もすべてそうであった。アメリカのヘゲモニーの裏で、成長病に陥った先進国と開発病に罹った途上国との呉越同舟が現代世界をうごかしてきた。これがグローバリズムの実態である。

  たしかに貧困は古くして新しい。しかも、現在世界レベルでも日本の国内レベルでも経済的社会的格差は拡大の一途を辿っている。けれども、貧困の実相は多様化して、単純な経済援助は有効ではない。ここで貧困・富裕をGDPの大小で判断する常識を以下の3つの寓話によって検討しておくのは、現代において貧困の範囲が肥大化している現状を再検討するのに役立つかもしれない。第1と第2の寓話は故都留重人氏の考案であり、最後は私のアイデアである(注12)。

  第1の寓話「蚊の居る国と居ない国」では、蚊の居る国Aと居ない国BとのGDPを比較する。この二つの国は蚊の有無を除いて、人口・技術その他の条件は同じであると仮定する。この例では、蚊が居るので蚊取り線香が売れる分だけA国のGDPがB国より大きいという。この「蚊」を公害物質に言い換えれば、先の京都議定書に二酸化炭素の削減を義務付けられた先進国が公害防止投資額に投じた分だけGDPが膨らんでいるのである。もしこの額を差し引けば、そのGDPはもっと途上国に近づくはずである。 

 「蚊」や公害物質の例から離れて、自然の利益が生きているおかげで川や海で泳げる国Cと、汚染のため自然環境の中で泳げずプールを建設して泳ぐしかない国Dとを比べると、上と同じメカニズムによって、美しいC国のほうがGDPにおいてD国より低くなるのである。この逆説はGDPの非合理性を恐ろしいまでに明らかにしているではないか!(注13)

  第2の寓話「花見酒の経済」は落語の演目「花見酒の経済」からタネをとっている。おなじみの八ッあんと熊さんの仲良し二人組みがサクラの花見客に酒を売って儲けようと、樽入り酒を仕入れて運んだ。天秤棒の前後を二人で担いでえっちらえっちら運ぶうちに、のどが渇くし、揺すられる酒から匂いがただよってくる。たまらず、後ろの熊さんは「一杯100円払うから飲ませてくれ」と言い出して飲んだ。さらに進むと、今度は前の八ッあんが今もらった100円を出して、「これで払うから俺にも飲ませろ」と言って飲んだ。これを繰り返しているうちに、花見の現場に着くまでに、二人はすべての酒を飲み干してしまった。こうして、せっかくねらった儲けをフイにした。

  100円のカネが何度も往復するだけで儲かったと錯覚した仲良し二人組の馬鹿さかげんを笑う普通の落語客の解釈を元に、都留氏はインフレ経済のからくりをあざやかに見せてくれた。だが、私はこれを少しひねって次のように逆解釈を施してみたい。二人が儲けをもくろむ対象の花見客は二人からみれば他人の関係である。他方、同じ100円の出し入れだけで酒が飲めたのは、二人の相互関係が友人・協同関係の間だったからだ。そのかわりカネ儲けをフイにした。それに対し、二人がカネを儲けるには花見客との売買関係という市場の場が必要だったのである。二人がうかつだったのはこの違いを混同した点にある。ここで私が出したい結論は、同じ消費行為でも、市場関係に入るとGDPを稼げるのに、共同体の関係ではGDPはゼロかそれに近いのである。この原理はつぎの第3の寓話「お手伝いさんと奥さん」でもっとはっきり見えてくるだろう。

  仮に独身の男性Eさんは多忙な勤務のため、お手伝いさんとしてFさんを雇って、5万円払って家事を頼んだとする。このとき、二人の所得合計は、Eさんの収入25万円プラスお手伝いさんとしてFさんが稼いだ分5万円、計30万円であった。この雇用関係がながらく続いているうちに発展して、EさんとFさんの間で恋がめばえ、結婚に合流した。晴れて夫婦の関係に入ったとたんに、二人合わせたGDPは25万円に減少してしまった。なぜこうなったのか。当初二人は他人の関係であったから、二人の所得を単純に合計してよかった。ところがFさんが妻として家事を担当したとき、Eさんから家事に同じ額の5万円を受け取ったとしても、これは所得として税務署に届けられることはない。だから、二人の所得合計は以前の30万円から25万円に減ったのである。つまり、GDPを規準にすると、実体経済が同じであっても、共同体は不利に写るのである。他人どうしの関係から構成される市場経済のほうがGDPが高く評価されてしまうのである。

  以上3つの寓話から見えることは、自然環境が悪化すればするほど、人間どうしの自然的伝統的な関係が失われれば失われるほど、怖いことにGDPは伸びていくのである! 日本経済のGDPが世界第2位と言っても、経済の実体は自然関係や人間関係の荒廃・崩壊から構成された部分がずいぶん多いと想像できるのである。またこの視点で考えると、GDPの水準で国家の貧富を測る国連や世界銀行の規準はなんら有効ではないこともわかるのである。

  他方、世界のレベルでみた貧困の多くは、戦争や自然災害の結果生じた難民のあいだで起きたものであることは確かである。この人々を救う対策はもっとも緊急かつ見えやすい課題であり、各国政府もNGOも援助にあたるべきであろう。しかし、それを自己目的化することは望ましくない。だが実際には20年近くも経過した難民センタ-が世界にはいくつもある。過密な環境で生計・生業の自立を保証しないまま、救助を繰り返す「貧困対策」の部分はできるだけ早く終息をはかるべきであろう。

  そうしてゆくと、いわゆる「貧困」対策のかなりの部分が的外れである可能性が高い。もっとゆゆしいのは、上で見たような偏見を持ったままで、「貧困対策」の名で援助対象の人々の伝統的自然や共同体への復帰を妨げ自立の可能性を奪うことになれば、それこそ彼らの人権を抑圧したことになるかもしれない点である。以上で、「持続的開発論」者の「貧困対策」がかならずしも有効でないことを明らかにした。


 「持続的開発」から「地域自立」「協同」へ

  近年「持続的農業」とか「持続的社会」という用語を使う場合が増えてきている。それは「持続的開発(成長)」というのがどうも胡散臭い言葉だと気づいた人々によって使われ始めたようである。それは「持続的開発」にくらべれば無難だが、いかにして農業や社会を「持続させる」を説明する言葉を欠いている点で社会科学的には不十分である。

  「持続的開発」でめざしている内容は、実は次の言葉に言い換えることができるのではないか。すなわち、自立・自給の発揚、家庭や地域での協同労働、地産地消をすすめること、お祭りを増やすこと、方言や母語を尊重してその文化を高めること、地域や国の自衛を高めること、伝統技術・地縁技術を活かすこと―これである。今後は以上のそれぞれを具体的に追求していこうではないか。

  経済主義に陥った「持続的開発」を卒業して、「持続性」に最重点をおくべきである。GDP総量の増加によって人類幸福を探るのは、もはや人類と多様な生物を守る途ではない。たとえば、現代日本のように過剰労働の横で失業者が増えていくのには、徹底したワークシェアリングで対処すべきである。貨幣的収入や労働の減少に直面したら、自給的調達つまり手作りの時間を増やすのがよい。  途上国にたいしてモノとカネを援助するより、彼らの資源をカネで買い占めることをいますぐストップすることを最優先すべきである。一部のNGOで展開されているオルタナティブ・トレードにも限界を設けるべきであろう。                                                     

 (おわり)

  注 1:諸橋他編『廣漢和辞典』全4巻、大修館書店, 1984;白川静『字統』平凡社, 1984、同『字通』同上,1996 2:Concise Oxford English Dictionary, Oxford University Press, 3:たとえば、大東文化大編『中国語大辞典』角川書店,1994 4:ロシア語でも「発展」razvitiと「開発」ekliyatirobatiのあいだに区別がある   すなわち、前者は①伸ばす、②成熟、後者は①搾取、②天然資源の開発の意味を持つ。『岩波ロシア語辞典』1982 5:森岡他編『新社会学辞典』有斐閣、1993 6:ヘルマン:ヘッセ、quoted in M. Serrano's G.C.Jung and HermannHesse,1966, See International Thesaurus of Quotations, Penguin Books,1978 7:サンテ・グジュペリ『風・砂そして星』、See Ibid. 8:「ヨハネによる福音書」第1章、『新約聖書』 9:白川静『中国古代の民俗』講談社学術文庫,1980:『中国古代の文化』同上、1979 10:とくに折口信夫『折口全集』第1巻,中公文庫,1975;『同』,同上,第19巻,1976 11:ブルントランド委員会『われらの未来』福武書店,1987 12:大崎「他人とのつながりが壊れるほど増すGDP」『時局』2002.5 13:同「豊かさを表す指標の限界」『人間の豊かさと自然環境』世界自然保護基金日本委員会,1993 (『神社と実務』第四号二〇〇六年三月掲載)

Oosaki Speaks

経済人類学と環境経済学の総合を志して研究し、國學院大学でその分野の講義(「民族と経済」「環境と経済」「消費社会論」「ゼミ-森と水の経済学」)を担当していました。また、ATT流域研究所という市民の環境科学の運動に参加しています。 今、力を入れているのは、世界で流行中の「持続的開発」について厳しい検討をくわえることです。これからは「エコ・ツーリズム」についても検討してみたいと思っています。

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